翌日の夕刻、は店のカウンターに座っていた
   事情が事情だけに、店主のヨルゴスには昨日の内に今回の経緯を一通り話しておいた


   「良かったじゃないか、。…お二方は、お前の事をとても気に掛けていらっしゃるのだぞ。有り難い話じゃないか。」


   ヨルゴスは、カウンターで片付け物をこなしながら言った


   「…でも…だから余計に自信がないんです。…お二人をまた落胆させてしまうのでないかと。」


   がテーブルの上の食器を運びながら溜息を吐くと、ヨルゴスはハハハ、と笑った


   「なあに、心配することは何一つ無いさ。お前にだったらできるさ。…親同然の私が保証してやってもいい。それにだ。」


   ヨルゴスはの項垂れた顔をわざとらしく覗き込んだ


   「聖域に入れて頂けるなんて、大変名誉なことじゃないか。…しかも教皇宮とはまた凄い。私も行って見たいものだよ。」

   「もう…おじさん他人事だと思って。」


   が不平を顕にすると、ヨルゴスは途端に持ち前の明るい表情を固くした


   「私はな…嬉しいんだよ。…、お前が私たちの村のことを考えて将来を選ぼうとしてくれていることがね。」

   「…おじさん。」

   「本当に良い娘に育ってくれて…私はこんなに嬉しいことはない。」

   「……。」

   「…さあ、今日の仕事はこれで終わりだ。…明日は、頑張って勉強しておいで、。」


   ヨルゴスの顔に、いつもの笑顔が戻る


   「…はい、頑張ります。」


   つられて、も笑みを浮かべた















   「えっと…、持っていく物はテキストと資料集とノートと筆記用具…そのくらいで良い筈よね。」


   店のカウンターではガサゴソと鞄を探って持ち物を確認していた


   「ははは、そんなに焦る事はないだろう。落ち着いて行くんだぞ、。」


   メーカーのコーヒーをカップに注ぎながら、ヨルゴスが笑った


   「う――ん、だって緊張しちゃいますよ。聖域なんて初めて行くんですし…。」



   カラン
   の語尾に、店のカウベルの音がシンクロした


   いらっしゃい、と言おうとして、ヨルゴスの口は途中で止まった
   その様子に、がドアを振り返る


   「…今日は。さんをお迎えに上がりました。」


   …その丁寧な語り口調にまさにぴったりな、柔和な出で立ち
   サガやカノンと同じくらい長い髪の毛は、綺麗なストレートラインを描き、中ほどの部分で緩く束ねられていた
   そしてまるで女性のように大きな瞳
   サガやカノンもかなり目立つ風貌であるが、この男は更に人の目を惹く

   が少々呆然としていると、男は柔らかな笑みを口元に湛えた


   「私はムウ、と申します。さんですね?…さあ、聖域に参りましょう。早く行かないと日が暮れてしまいます。」


   ムウと名乗るその男は、言うや否やの手を引いて店のドアの外に出た


   「あ…あの。」


   が何かを言おうとした瞬間、ムウが無言での身体を腕のうちに収めた


   「えっ、えっ?」


   ムウの突然の行動に、は頭の中が真っ白になった
   その腕(かいな)を振り払おうと、が力を込めようとしたその時、ムウが耳元でふっ、と笑った


   「さあ…私にしっかり掴まっていてくださいね、。」


   が顔を上げた瞬間、見慣れた店の景色が一瞬にして目の前から消え去った




















   恐る恐る目を開けた時、の視界に白亜の建造物群が飛び込んできた
   さながら小さな山のように、緩やかな傾斜の上にそれらは聳え立っている
   建造物一つ一つの間には、それを繋ぐように長い階段が設えてあった
   ここギリシャではさほど珍しい光景とは言い切れないだろうが、それでも村に暮らすにとっては驚愕に値する
   何より驚いたのは、どうやらそれらの建造物が現役で使用されているらしいことだった


   「ここ…が聖域…?」

   「ええ。そうです。ここが聖域です。」


   宮殿群を見上げて愕然と呟いたに、ムウは鸚鵡返しのように言葉を発した
   上を見上げるの視線の先を、ムウはすっと指差した


   「今、貴女の目の前にある建物が白羊宮です。この建物から順に金牛宮、双児宮と黄道の星座を冠した宮殿が12ほど存在します。
   そして最後の双魚宮の上には、教皇宮、女神神殿が建っています。」

   「サガとカノンからある程度の事は聞いていたけど、これがその聖域なのね。」


   頷きながらムウの解説を聞くに、ムウはおや、と肩を竦めて見せた


   「、貴女はやはりあの二人にとって重要な人物なのですね。」

   「…どうして、そう思うの?」

   「あの二人が外の人間である貴女に聖域(ここ)のことまで話し聞かせていたとは、私にとって些か驚く事なのですよ。
   …それは二人にとって貴女が大切な存在であるという何よりの証拠でしょう。」

   「う――ん、本当にそうかしら?店でのお二人は、揃っていつも私をからかって遊んでいるようにしか思えないんだけど。」


   の何の気無い言葉に、ムウは大きな瞳を更に大きくして驚いた


   「サガとカノンが、二人揃って貴女をからかうのですか?」

   「え?…ええ。なんだか絶妙のコンビネーションで。」

   「…それは驚きました。貴女の前だけとは言え、よもやあの二人がそこまで仲が良かったとは…。」


   …どうやら聖域(ここ)の人間にとっては、サガとカノンが仲が良いことが驚愕に値することらしい
   はムウの言葉からそう感じ取った
   そして、思い立ったようにムウに尋ねた


   「ねえ、サガとカノンは普段は仲が悪いの?」

   「…ええ、まあ双子だけに色々あったのではないでしょうか。」


   の質問に対し、ムウはあくまでもぼかし込んで答えた
   …私の知らない、何かの事情があるみたい
   はムウの返事から微妙な人間関係のムラを察した
   そして、二人と自分の関係について、一つ一つ記憶の糸を手繰ってみた







   …サガのことは、物心付いた時からずっと覚えている
   それは…サガがいつも店に寄って私に顔を見せてくれていたからだ
   …でも、カノンはどうだったろうか?
   自分が相当幼かった時に兄のように遊んでくれたことがあったような気はする
   しかし…なんだかその後、物凄く長い時間のブランクが存在したような…
   そう言えば、カノンが教皇に扮したサガと共に店に来るようになったのは、つい最近のことではなかったか
   「『猊下』の随身を拝命したんだ。」
   カノンはそう言っていたのでこれまで深く考えはしなかった
   しかし、よく考えると教皇代わりでもないカノンなら、普通に店にやってくることはできたはず
   それまでの空白は一体何をしていたのだろう…いや、一体何があったのだろう






   ゴクリ
   はある予感に駆られて、思わず音を立てて唾を飲んだ
   そして、その唇を開いた



   「…ねえ、十何年か前に、あの二人に何かがあったんでしょう?教えて、ムウ。」



   柔らかかったムウの表情が、一瞬にして固くなった
   …やはり、何かがあったのだ…あの二人の間に
   そしてそれを私が知らないということは、二人が私にそれを知らせたくないと思っているからであろうということも
   …でも、私は敢えて知りたい
   そして、同時に知らなくてはいけないことなのだと思った


   「ムウ、お願い。教えて。…サガとカノンの間にあったことを。…何があったとしても私、決して驚かないから。」


   懇願するの顔を見て、ムウはの覚悟が並々ならぬものであることを悟った
   …しかし、このようなことを自分がに告げても良いのだろうか
   ムウは一瞬躊躇った
   がこのことを知らないということは、即ちサガとカノンの二人がそれをに知られたくは無いのだということを何より如実に示している
   二人にとってがさほど重要でない存在ならば、確かにそのような事情を知らせる必要はないであろう
   …だが、の存在が二人にとって大切なものであることは明らかな事実だ
   ならば、ここで二人の事情を自分がに話す事はある意味正しいことなのではないだろうか
   何より、がこうして知りたいと思うその気持ちを堰き止めることが、三人にとって最終的に良い結果をもたらすとも思えない
   ムウは自らの心の裏の葛藤に決着を付け、総てを語ることに決めた
   返事がないことに不安そうに覗き込むに向かって、ムウは深く頷いた


   「。ここから先、二人の待つ教皇宮までは、自分の足で歩いて上がるより他に進む術はありません。
   …勿論、私は使いで貴女の元までやって来たのですから最後まで一緒に送り届けさせていただきます。」

   「…ムウ。」

   「…道程は長い。長い話をするにはまさに丁度良いでしょう。…さあ、参りましょうか。」


   ムウは、少し表情を緩めるとの背中を軽く叩いて促した


   「…ええ。上で、サガとカノン…二人が待っているわ。」


   も頷いた

   ムウとは、白羊宮の階段を昇り始めた



















   ムウとが教皇宮に辿り着いたのは、辺りが夕闇に染まりかける時刻だった


   「遅かったではないか。もう少し早く着くと思って早めに執務を終らせておいたのに。」


   を建物に迎え入れたサガの口調は、を嗜めるものであった
   が、それは同時にを歓迎する最大の賛辞でもあった
   サガの言葉を耳にしたムウは、自分の選択がやはり間違いではなかったと確信した


   「…では、私はこれで失礼いたします。」

   「私が執務中であったとは言え、すまなかったな、ムウ。礼を言う。」


   どこか嬉しそうなサガの表情を見て、ムウはに向かって僅かに微笑んだ


   「、頑張るのですよ。…それでは、また。」

   「ありがとう、ムウ。」


   踵を反して登ってきた階段を降りてゆくムウの後姿に、は声を掛けた
   …本当に、ありがとう、ムウ


   「さあ、中に入りなさい、。」


   サガに促されて、は宮の中へと入った


   「おお、よく逃げずにやってきたな、。」


   宮の中では、カノンがソファに腰掛けて待っていた


   「カノン…人聞き悪いよ。私だってやる時はやるんだからね。」

   「ほ――、そうか。やる気になったか。じゃあ、ビシバシしごいても文句を言うなよ、。」


   ニヤリ、と口の端を上げてカノンが意地悪く笑む


   「さあ…では早速始めるか、。こっちに来て椅子に掛けなさい。」

   「は―い。」

   「…返事だけは威勢がいいな。」


   どさ、どさり
   の眼前に、堆く書物が積まれる


   「…判らないことがあったら、これで調べなさい。自らの手で調べたことは、記憶の深いところに焼き付くから。」

   「は、はい。」

   「今から、俺とサガが交互に一問一答式の問題を出すからな。お前はそれに答えろ。判らんことは本で調べろ。いいな。」

   「…はい。」


   …覚悟はしてきたけど、流石にこの状況は緊張する
   は、どきどきして発問を待った
   兄であるからか、サガが先に口を開いた


   「第1問、第二次世界大戦後、インドネシアの独立運動を指揮した軍事組織の名を言え。」

   「は!?」


   思っても見なかったサガの問いに、は一瞬自分を見失いかけた


   「おい、サガ。…普通そういう現代史は試験に出ないんじゃないか?もっと古代史や中世史の方が…。しかもなんかえらく局所的な…。」

   「黙れ、カノン。50年以上前のことは十分歴史だ。…それに、教皇補佐たるもの、世界の政治基盤に関連する事は把握しておかねばならん。」

   「…は受験生であって、教皇補佐候補じゃないだろうが。」







   …始まった
   は言い争いを始めた二人を傍観し始めた
   …これでは、勉強どころではなさそうね
   本当に、困った双子だわ
   苦笑いを浮かべて、は机に肘をついた
   今までにも、店でこんな調子の喧嘩は度々していたけれど

   …なんて平和な光景なんだろう

   心の裏が熱くなってくるのをは感じていた










   教皇宮までの道すがら、ムウに聞いた二人の話
   …それは、の予想を遥かに越える内容だった

   次期教皇に選ばれなかったサガに、カノンが教皇殺害を唆したこと
   それに怒ったサガが、カノンをスニオン岬の岩牢に幽閉したこと
   そしてカノンが海底神殿に辿り着き、サガへの巻き返しを謀って海皇を操っていたこと
   …サガが、教皇を暗殺し、聖域に君臨していたこと

   それは最早、唯の喧嘩で済まされる次元のことではない
   だが、総ての事象の根底に、二人の仲の悪さがあったのも否めない
   …本来、二人が一つの星の下に生まれたこと自体が良くなかったのかもしれない
   どんなに、二人は苦しんだことだろう
   …いや、正直なところ、今でもまだわだかまりはあるのかもしれない
   だが、今自分の前でこうして言い争う二人を目にする事は、どんなに平和で幸せなことだろう








   「どうした、!何故泣いているのだ。」

   「…ううん、なんでもないよ。」

   「あれだな、やっぱりサガの設問が良くなかったんだよな。あんな問題、絶対出ないって。」

   「煩い!試験に出てからでは遅いのだ。出る可能性がゼロでない以上、学んでおいて損になることはない。」

   「…いや、絶対出ないって。」









   お二人とも、ありがとうございます
   私…嬉しいんです
   こうして、お二人の姿を見られることが








   が窓から見上げた空は…すでに深い闇の中で
   透き通った空気の中、夏の星座が眩しく瞬いていた









管理人より

初のキリリク作成ということでお送りいたしました「Imperfect assumed question」ですが、如何でしたでしょうか?
「教皇の間で双子の家庭教師夢」というリクでございましたのでヒロインを高校生にしてみました。
出来上がってみたら、双子夢というより羊夢になりかかっておりました。(笑)
サガの出題に答えられる方、貴女は真の世界史通です。(笑)
…美月さまのリクにお応えできていたか少々自信がありませんが、今後もよろしくお願いいたします。
美月様、リクありがとうございました。m(_ _)m











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